kiss in the dark

 



 

 荷物は少ない。
 入院の際に持ち込んだ下着や着替え、それと愛読書を適当に袋に詰め込めばおしまいだ。五代目直々に渡された当座の薬は見たくもないとばかりに一番下に。
 カカシは袋の口をきっちりと閉めると、ベッドに投げておいたベストを羽織った。
 そんなカカシの動作をずっと目で追っていたナルトは、ふと口を開いた。
「‥‥‥先生、痩せた?」
「ん? んー‥‥‥まあ入院中は筋トレも禁止されていたからね。少し落ちたかも」
 身体にフィットするはずのアンダーがだぶついている。
 否定する理由もなく、カカシは最近また痩せてしまった事実を認めた。
 すると、ナルトは気に入らない風に鼻に皺を寄せる。いや、もしかするとこれは痛ましい表情という奴なのかもしれない。初めて見るナルトのそんな表情に、カカシは不思議そうに首を傾げた。
「なに?」
「無理しないでくれってば」
 風影奪還の任務中の時から、何度も繰り返された言葉。
 搾り出すような声音で呟くナルトに対し、カカシはいっそ軽やかに笑った。
「おかしなこと言うね、おまえ」
 ナルトは目を瞬かせた。
「暁はそんな容易い敵だったか? 相手は生まれた里からも弾き出された化け物集団だ。人柱力でも何でもない、人の身でありながらあれだけの能力を身につけた。そんな連中を無理もしないで退けられるものかよ」
「先生」
「ナルト。おまえ、覚悟してるの?」
 カカシはベストのファスナーを勢いよく咽喉元まで引き上げた。
 これからナルトは新たな力を得るべく修行を行う。そのために、カカシは渋る医療忍たちを宥めすかして退院を決めた。
 里に残された最後の写輪眼を出来るだけ長く使えるように、彼らは常に細心の注意を払っている。性懲りもなく引き止めにかかった職務に忠実な医療忍たちを追い返し、荷物をまとめている最中に退院の話を聞いたナルトが迎えと称して尋ねてきたのだ。
 無機質な病室が、あっという間に賑やかになる。
 ナルトが騒がしいのはいつものことだ。それを天真爛漫と目を細められるか、無神経と眉を顰めるかは受け止める者によって違う。
 カカシはナルトに対して髪の毛一筋ほどの偏見を持たない数少ない人間で、常であれば目を細めて元気な弟子の姿を見守るのだが、今回ばかりはいつものようにはできなかった。
 医療忍たちとの堂々巡りの会話に苛立っていたこともある。思うように動かない自分の身体と、少しずつ削られていくように落ちていく視力と。ナルトの修行はヤマトに一任して療養を続けるように告げてきた五代目に、気分がささくれだっていたせいもあるだろう。
 カカシはそれを表に出すような愚は犯さない。
 医療忍や五代目の言うことはもっともだ。本調子でないカカシが修行をつけたところでいい結果が残せるはずがない。ナルトの成長のみならず、カカシの状態をさらに悪化させる可能性がある行動を認められるはずがないのだ。
 苛立つのは自分の都合で、それを他人にぶつけるのはただの八つ当たりだ。忍びとして醜い行為だ。
 それなのに。
 ナルト相手に気が緩んだのか、思わず零れた言葉には小さな棘が含まれていた。
 そして、ナルトはその小さな棘を見逃さない。‥‥‥見逃せない。
 いきなり突きつけられた棘に、ナルトは目を丸くしている。戸惑うような、何を言われたのか理解できないというような、そんな表情。
 いつもの飄々とした態度で誤魔化そうとしていたカカシは、ナルトのその表情に、いっそいい機会なのかもしれないと思った。
 ナルトを取り巻く環境は確かに変化した。
 理解者に恵まれ、ナルトを疎んでいた人々もあの記憶を忘れることなど出来なくとも、少しずつ「誰か」に似ていく少年の姿に九尾との同一視を止めつつある。
 だが、環境はよくなっても、状況は悪くなる一方であることを、ナルトはまだ気付いていない。
 暁のこと。
 サスケのこと。
 ナルトがあきらめられないその二つともから、ナルトを遠ざけようとする動きがあることを、当のナルトだけが知らないのだ。
 たとえば、ダンゾウの子飼い、暗部養成機関「根」出身の少年。
 七班に新しく組み込まれたサイについてはヤマトから報告を受けている。
 ダンゾウは古いタイプの忍びだ。情に篤い火影と常に対立してきたのは、里を第一と考え、全ての私と感情を捨て去る忍びこそが真の忍びだと、真の隠れ里の有り様だと主張してきたからだ。それは、初代火影が木の葉隠れの里を作る以前の、忍びのスタンダードな姿だった。
 ダンゾウは里を愛している。火影と違う形で、里を守らねばと思っている。それこそ、彼が求める忍びの姿そのものの姿勢で私を滅して。
 だからこそ、火影はダンゾウを粛清することが出来なかったのだ。
 そのダンゾウが子飼いのサイに命じたのは「サスケ暗殺」。‥‥‥理に適っているなと思った。
 サスケが里抜けをして二年半。
 大蛇丸の動きが報告されるたび、わずかだがサスケの現状も報告される。
 大蛇丸の目的がサスケの身体を己の次の器にすることは明らかである以上、みすみす見逃せるはずがない。
 一番手っ取り早く、被害が少ないのが、サスケの暗殺だった。
 それは正しい。正しすぎる選択だ。
 うちはの写輪眼をもった大蛇丸など、そんなものを生み出すわけにはいかないのだから。サスケ一人の犠牲で止められるのならば安いものだと、上役がそう考えるのは当然の結果だった。
 何よりも、イタチの二の舞だけは避けなくてはならない。
 里を離れた写輪眼がどれほど危険か、追っ手を差し向けた当時の上層部たちは身に染みて知っているのだから。
 ナルトとサクラは、サスケを取り戻せると信じている。
 サスケは騙されているのだから、と。
 だが、カカシはそうは思わない。
 ‥‥‥そんな、甘いガキじゃないよ。
 サスケには覚悟がある。
 視野が狭く、利口なやり方ではないが、それでもサスケは覚悟を決めたのだ。
 穏やかで暖かい木の葉での生活を捨てて、冷たく殺伐とした、血なまぐさい匂いのする大蛇丸の元での修行を選んだ。全ては実の兄を殺すために。
 木の葉とて、イタチをこのまま放置しているつもりはない。サスケが成長した暁には、完璧なバックアップとともに追い忍として差し向ける予定だったのだ。
 けれど。
 サスケは、目の前にぽんっと置かれた強力な力に手を伸ばした。
 急速な成長を遂げるナルトに焦り、大蛇丸の差し出した黒い宝石を手にしてしまった。
 その代償が己の肉体だとわかっていても、それでもいいと覚悟を決めて。
 ‥‥‥馬鹿な子供だ。
 カカシはもう一度、ナルトに向けて覚悟してるかと問うた。
「サスケを取り戻すために、誰かを失う覚悟はあるか? それは俺かもしれないし、サクラかもしれない。シカマルくんかもしれない。キバくんかもしれない」
 大蛇丸からサスケを取り戻すということは、そういうことだよと。
 そう告げれば、ナルトは蒼い瞳に稲妻を走らせた。
「なんでだってばっ! サスケをぶん殴って連れ戻すだけだぜ?!」
「お馬鹿」
 きっぱりと切り捨てる。
 わかってないかもしれないとは思っていたが、本当に自覚していなかったのか。
 下忍時代にもっと頭を使う修行をさせなかった自分が悪いのか、自分などよりもずっと長く師として旅をしていたはずの自来也が悪いのか、おそらく両方だろう。
 カカシは深々と息を吐いた。
「大蛇丸に喧嘩を売るってことはだ、音の里長に喧嘩を売るってことだ。つまり、そのまま木の葉対音の戦争になるんだよ」
 音に唆された砂が木の葉を攻めた、あの時のように。
 木の葉崩しの後の里の惨状をナルトも覚えている。前線ではなく里の中で行われた戦いは、多くの破壊と犠牲を木の葉に齎した。
「まあ、戦闘が前線だけで行われるんならあんなことにはならないと思うけどね、相手は大蛇丸だ。もっとも木の葉に打撃を与えられるよう、戦闘を里の中に持って行くためにいろんな策を講じるだろうよ」
「そんなことさせねえって!」
「大蛇丸に勝てるの? 戦闘ではない、頭脳戦でさ」
「卑怯なこと考える前に倒せばいい!」
「無理だね」
「なんでだよっ!」
「サスケを使ってくるからさ」
「っ!」
 ナルトは蒼い瞳を大きく見開いた。そして、喘ぐように大きく息を吐く。
「いざ戦争が始まれば、サスケをおまえにぶつけて、サスケを殺せないおまえが手間取っているその隙に木の葉を攻めてくるだろうね。前線に出てるのは誰かな。シカマルくんは作戦司令室に回されるだろうから、おそらくキバくんかチョウジくん。リーくんかな。あちらにはカブトがいるし、音忍は投薬などで肉体改造を施されているから、並みの攻撃は通用しないね」
「‥‥‥先生」
「あそこの連中は里長に似て敗者を嬲るのが大好きだから、万が一負けたら惨いことになるだろうねえ。赤丸なんか犬鍋にして食べられちゃうかも。ああ、俺の可愛い忍犬たちも、俺が負けたら可哀相なことになっちゃうね」
「先生っ!」
「ナルト」
 もう止めてくれと、悲鳴でもってカカシの説明を止めさせたナルトに、カカシはいっそ慈愛に溢れる微笑を浮かべて見せた。
「それが戦争だよ」
 もうすでに、サスケ個人の話では済まされないのだ。
 サスケが里を抜けた二年半前ならばそこまで大事ではなかっただろう。しかし、今のサスケは「音忍」だ。大蛇丸の弟子だ。そのサスケを取り戻すということはすなわち、「他の里の忍びを拉致する」と同義語なのだ。
 木の葉に連れ戻すということは拉致だけではなく、監禁も伴う。罪にはならないだろうが、戦争を仕掛ける口実にはなる。
 そして、何よりも。
 サスケがそれを望んでいない。
 大蛇丸の元にいるのはサスケの意思だ。サスケの覚悟だ。ナルトのしようとしていることは、サスケの意思を全て、完全に無視した挙句に踏みにじることになる。ナルトの「我」のためだけに。
 そもそも、サスケが以前のサスケだとはカカシは露ほども思っていない。
 噂で伝え聞く音の里の非道さを思えば、その精神に何の影響も及んでいないとは考えられないからだ。まともな神経ではあそこでは息をすることすら辛いはずだから。
 カカシは、そっと目を閉じた。
 ‥‥‥それでも、幼かった自分に大蛇丸は優しかった。
 年長であるサクモに対し、彼はわかりにくい敬意を払っていた。その一粒種であるカカシにも目をかけてくれて、父親が長期任務に出かけて不在の時は修行に付き合ってもくれた。幼い頃から天才と呼ばれていたカカシだったが、大蛇丸から見ればつまらない幼稚な修行だっただろう。
 それでも彼は付き合ってくれたのだ。
 ――――いや。
 彼らは、だ。
 自来也と、綱手と。
 里の若き伝説となり始めていた三忍が、笑いながら、怒鳴りながら、喧嘩をしながら。
 暇を見てはカカシに構ってくれた。
 後に自来也の弟子である四代目が加わり、里の外は戦乱の嵐が吹き荒れていたけれど、幸福だった。
 幸せな日々だった。
 ‥‥‥優しい日々だった。
 それが壊れたのは何時だったか、覚えていない。
 父親が任務に失敗した時だったかもしれない。自刃した時かもしれない。
 大蛇丸の理想が暗く淀んだ方向へと向かっていった時かもしれない。自来也との口論が増えた時かも、綱手の恋人が、弟が死んだ時かも。
 要するに、きっかけなどいくらでも溢れていた時代だったのだ。
 人が正常な精神を保ち続けていられなかった時代。
 その時代の寵児である大蛇丸が木の葉を抜けるのは、当然の成り行きだったのだろう。そしてまた、自来也が徐々に生温くなっていく木の葉に居場所を見つけられず、大蛇丸探索の密命を言い訳に放浪の旅に出ていったのも。
 彼らに比べれば、ナルトはなんと健やかなことか。
 覚悟が足らない。生温い。
 これから自分の仕掛けることが里を巻き込む戦乱になることも想像できない、他人の性善説を疑いもしない子供。
 同じ里の人間に悪意をぶつけられ、虐げられてきたはずなのに、この健やかさはどうだろう。
 今もほら、サスケも仲間達もあきらめられない、犠牲になどさせないと、拳を握り締めている。
 ‥‥‥強い子供だ。
 現実を直視できる強さを持った子供だ。
 だから、カカシはあえて惨い現実を突きつける。
 綱手や自来也が濁してきた現実を。
 彼らはおそらく、その役目は自分にはないと考えていたのだろう。ナルトにとって、綱手や自来也は「忍び」ではない。彼らは里長であり、師匠なのだ。
 現実を見せるのは「同じ忍び」であるカカシでなければナルトには伝わらない。頭で考えるよりも現場を見て、忍びとは何たるものかを身につけてきたナルトには。
 結局のところ、嫌われ役を押し付けられたようなものだが、カカシは二人の判断に感謝した。
 ‥‥‥最初に師として付いたのは自分なのだから、できることならば、最後まで自分の手で。
「ナルト」
 それで。
「戦争を始める覚悟がおまえにないのなら」
 俺は、おまえに修行をつけられないよ。


 ナルトが自分を憎むようになったとしても。

 

 

 

 

 

 

 

 


「ガキ苛めてんじゃないよ」
 開口一番、ぶつけられた台詞がそれだった。
 カカシは執務室の入り口近くで足を止めたまま、ぽりっとマスクの上から頬を掻いた。
「‥‥‥ずいぶんと耳の早いことで」
 里の母とも呼ばれつつある、五代目火影はふんっと肩を揺らした。
「私の可愛い弟子が、道でとぼとぼ歩いているやんちゃ小僧とすれ違ったんだと。声をかけても聞こえてない様子だったそうだ」
「はあ」
「あの子にそこまでショックを与えられるのはサスケかおまえくらいだ。弟子もなっさけない面したまま病院の仕事に行ったぞ」
「それで?」
 カカシは何が悪いのかわからないという様子で首を傾げた。
 五代目は美しい眉を顰めてみせる。
「ナルトに妙なこと吹き込むんじゃない。今は大事な時期なんだ。下手なことを言って気を乱すようなことになれば」
「五代目」
 強引に話を断ち切れば、五代目はますます強くカカシを睨みつける。
「俺は本当のことを言っただけです。あなたたちが教えないことを告げただけ。いけませんか」
「時期が悪いと言ってるんだ。あいつはまだ子供だぞ」
「本気で言ってます?」
 カカシは目元に笑みさえ浮かべて、言った。
 口調はいつものままだ。飄々といえば聞こえがいいが、要するに力の抜ける、だらしなくも聞こえる口調。
 だが、その声音に潜む氷の針のような侮蔑の響きを、さすがに五代目は聞き逃さなかった。一瞬、怒りに頬を染めて、しかし、すぐに掻き消した。
 そして、大きく息を吐いた。
「‥‥‥わかってるよ」
 ナルトをまだ子供だと思っていたいのは、五代目の我侭だ。
 伝説の三忍が一人。初代火影の孫。医療忍術の創始者。
 輝かしい経歴をもった伝説のくの一である綱手姫は、情の深い女性だった。
 三世を誓った恋人を失わなければ、今頃為した子供の孫を腕に抱いていただろう。夫を愛し、子を愛し、孫を愛する、そんな普通の生活を望んでいた彼女は恋人を失うことで希望を絶たれ、絶望し、けれど火影となってからは里の母となるべく惜しみない慈愛を注いでいる。
 そんな五代目が一番目をかけているのがナルトだ。
 ――――若くして英雄となった四代目火影は、綱手姫と同じ初代火影の血縁にあった。
 そしてまた、ナルトを産んだ女性も。
 年若い火影は自らの権力を磐石のものとするために、少し血が近かったものの火影の縁者にあたる女性を娶った。大蛇丸を退けて火影になるには後ろ盾を得る必要があったからだ。
 四代目と、四代目に面差しのよく似たナルトが五代目の弟に似ているのはそれでだ。
 五代目が火影襲名前にナルトに出会った時、ナルトは弟が死んだ年齢と同じ年齢だった。だから余計に似て見えた。
 そして、五代目が恋人との間に男の子を生んでいたら、きっとこんな風だったろうと。
 五代目は椅子の背もたれにどっかりと身体を預けると、こればかりはごまかしの聞かない年齢相応に色の褪せた髪を掻き上げた。
「どうせ私はナルトに甘い。悪かったね」
「誰かに言われましたか」
「ご意見番からシズネからさんざんね。おまえにまで言われるとは思わなかったよ」
「ご愁傷様です」
 ご意見番の言葉は正しい。常に正しい。しかしそれは情を廃した「忍びの正しさ」だ。
 情に篤い、穏健派の三代目の教えを受けた五代目が不快に感じるのも無理はなかった。
「‥‥‥おまえもナルトを里に縛り付けて幽閉すべきだと考えるかい?」
 口元に歪んだ笑みを貼り付けて、五代目は言った。
 それに対し、カカシはにっこりと微笑んだ。
「それが正論でしょうね。幽閉して、正常な意識を持たないように薬か何か使うのがいいと思いますが、ナルトの意識が九尾が表層に出てくるのを留めている可能性がありますから、意識を失わせるのは得策じゃない。ならば暗部を一小隊ほどつけて監視するのがベストですが」
 ことんと、首を傾げる。
「それではせっかく捕らえた九尾を兵器として活用する事が出来ず、十五年前に失った戦力分損したことになりますから、甘い言葉と態度で手なずけて懐かせる五代目のやり方は正しいと思いますよ」
「‥‥‥カカシ」
 五代目は指先で机を叩いた。
「おまえ、もしかして怒ってるのかい?」
「何をです」
「何って、そりゃあ」
 五代目は戸惑うように目を泳がせた。
 こうしている間にも、冷たい怒りが冷気となって足元を忍び寄ってくるようだ。
「俺にナルトをどうするかなんて聞くからです」
「‥‥‥すまん」
 今回ばかりは、強気の五代目も首を竦めて謝罪した。
 確かに聞く相手を間違えている。
 ナルトは四代目の遺児だ。カカシにとっては師匠であり、短い間だったが後見人も務めてくれた恩人の息子だ。里の誰よりもナルトに対して情を持っている。カカシにとって身内のようなものなのだ。
 身内だからこそ、甘いだけではすまされない。
 祖母や祖父は孫に対して責任がないから可愛がるだけだが、親や兄姉であれば厳しく仕付ける責任がある。カカシの場合はまさしくそれだった。
 そして、だからこそ、自分の行動が周囲にどんな影響を与えるか考えようともしないナルトに苦言を呈したのだ。
 ナルトに憎まれる役どころをカカシに押し付けたくせに、それで責められてはたまらないというところか。
「で、用件はそれだけですか。病院を出たその足で来ているので、さっさと帰りたいんですが」
「いや、本題がまだ残ってる」
 五代目は執務机の引き出しから一枚の紙を取り出した。伝令用の小さな紙だ。
「雲隠れの人柱力が行方不明だそうだ」
「‥‥‥暁ですか」
「このタイミングではそう考えるべきだろう。人間に封じられていない尾獣にも最近妙な動きがあるらしい」
「そろそろ来ますね」
「ああ。カカシ、ナルトの修行を急げ」
「‥‥‥ヤマトに任せるんじゃなかったんですか」
「そんなもん状況が変わればいくらでも翻すよ。‥‥‥おまえには負担ばかりかけるが」
 心底すまなそうな五代目に、カカシは小さく笑った。
「問題ありません。俺は口を出すだけですから、負担は主にヤマトにです」
「‥‥‥労ってやれよ」
「気が向いたらそうします」
 それではと、カカシは退室した。
 残された五代目はもう一度大きく息を吐く。すると、ずっと執務室の隅に控えていたシズネが控えめに側に寄った。
「‥‥‥綱手様」
「何も言うんじゃないよ。さすがにおまえにまで打たれたら、賭場にでも繰り出さんと立ち直れん」
「いえ、そうではなくて」
 言いたいことは全てカカシが言ってくれた。だが、それがシズネを戸惑わせていた。
「少し驚きました。カカシ‥‥‥くんはナルトくんを可愛がっていると思っていましたから」
 盲目的に、とは口にしなかった。 
 それに対して、五代目はこめかみを揉みながら言った。
「可愛がってるし可愛く思ってるのさ。平時であればな」
「はい?」
「あいつは昔から意識の切り替えが早くてな。普段はボーっとしているが、任務となれば相手がなんだろうと容赦はしない子供だった。‥‥‥風の国の任務で、木の葉崩しどころでない戦乱が近づいているのを感じ取ったんだろう。今のうちに技から意識からナルトに叩き込むつもりだ」
 机に肘をつき、大きく息を吐く。
「ナルトにしてみれば青天の霹靂って奴だろうよ。戦闘中はともかく、里の中では気の抜けた師匠でしかなかったカカシに突き放されちゃな」
「でも、カカシくんの言っていることは私も同意見です。‥‥‥あそこまでは思い切れませんが」
「いざとなったらいくらでも非情になれる奴だからね。師匠にそっくりだ」
「四代目、ですか?」
「そうだ」
 五代目とシズネは、ほぼ同時に壁にかかった四代目の肖像画を見上げた。
 ナルトに面差しの似た、知的な美青年といった風情の若き火影。
 九尾襲来の折、生まれたばかりの赤子に命を懸けて九尾を封印し、散った英雄。
「普段はいかにも好青年って奴だったがね、自分の足場を固めるために平気で政略結婚できる奴でもあった。まあ、あれは政略というより当人同士の間で交わされた契約結婚みたいなもんだったが」
 当時を思い出したのか、五代目は難しい表情でいる。
「私もその直後に里を出たから、二人の生活がどうだったかは知らないが。ただ、ナルトが生まれたタイミングを考えると奴はそれすら予測してたんだろうよ」
「ナルトくんが、ですか?」
 シズネは目を瞠った。
「そうさ。ナルトが生まれたのが十月十日。九尾が襲ってきたのも十月十日。あいつは時空間忍術の使い手だった。予知に近い能力を持っていた奴の子供で強大なチャクラの持ち主が、九尾襲来と同じ日に生まれるなんて、そんな上手いタイミングがあるもんかい」
「‥‥‥最初から、そのつもりで?」
「推測だがね。今となっては真実は誰にもわからない。だが、これだけキーワードが揃うと偶然と考える方が難しいだろうが」
「そう、ですね」
「‥‥‥ナルトはへその緒も取らないまま、九尾の器とされる封印の祭壇に供されたそうだよ」
 五代目の、静かな声が執務室に滲む。
 窓の外、真っ赤な太陽が里を赤く染めて沈んでいく。
「母親の腹から引き出されたナルトを最初に抱き上げたのは、カカシだったそうだ」
 そして。
 四代目の元へ、産湯にも浸かっていない赤子を運んだのも。
「あいつらは、そういう師弟だった」
 五代目は、痛ましげに目を伏せる。
 落日の最後の光が目を焼いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空が赤い。
 沈む夕日が平和な里を赤く染める。
 形を揃えていない石を敷かれた通りを歩いていたカカシは、ふと、己の歩く石畳が血塗れて見えた。
 一瞬、目を瞠る。
 赤い、赤い道。
 夕焼けの赤と錯覚したのだとすぐに気付いたが、思わず止めてしまった足はなかなか動かなかった。通り過ぎていく人々が怪訝そうにカカシを見て、上忍だとわかるとあわてて目を逸らす。
 立ち止まったまま動かないカカシの頬に、何か冷たいものが落ちる。
 ぽつり、ぽつり。ぽつりと。
 日が照っているのに降る小雨。狐の嫁入りだ。
 ぱらぱらと少し強くなった雨足に、子供達が歓声を上げて走っていく。
 一家の主婦は慌てて洗濯物を取り込み、軒先の縁台に腰を下ろしていた老婆は。
 老婆は、沈む太陽に向かって手を合わせ、一心に祈り始める。
 聞き取りづらい祈りには、それでも必死な響きがある。四代目の無事を願う祈り。
 その老婆は痴呆が進み、記憶が混濁していると聞いた事がある。老婆の意識は、あの夜に飛んでいるのかもしれない。
 赤い空と通り雨。狐の嫁入り。
 通りすがりの天気雨はすぐにやみ、カカシはゆっくりと歩き始めた。太陽が半分以上隠れ、急速に赤みを失っていく道を。
 ‥‥‥あの夜も、こんな雨が降っていた。
 赤い月が、いやに大きく見えた。
 封印術を行う祭壇に控える四代目の元へ九尾を誘い込むため、贄となるべく暗部たちは自ら九尾の顎に飛び込んでいく。嵐に舞う木っ端のように、四肢を異様な方向に曲げて暗部たちは蹴散らされていく。
 圧倒的な九尾の脅威を前に、人間の力はあまりにも軽い。
 九尾は凄まじい唸り声を上げて、暗部の一人をおもちゃのように宙に飛ばしては口に咥える。屈強な肉体を持つ暗部を、ぽーん、ぽーんと。そのたびに四肢が引き千切られ、赤い雨が降る。
 己の腹心の部下とも言える男たちが弄ばれている様子を眺めながら、四代目は笑ってカカシに命じた。
 吾子を連れておいで、と。
 何をするのか知っていた。何のために連れてくるのか知っていた。
 けれどカカシは走った。封印術の要となる「器」を取りに行くために。
 そして。
 九尾は封じられた。
 大いなる力を封じ込める術の約定どおり、四代目の命を礎として。
 ‥‥‥白々と、夜が明ける。
 空には雲ひとつなく晴れ渡っている。
 なのに、ぽつりと、冷たいものが落ちてくる。
 地に倒れ伏した四代目の頬に、泣くことも出来ず、師の亡骸を見下ろし立ち尽くすカカシの頬に。
 母に抱かれることなく、兄のような立場の少年から父へと、人柱となるべく手渡された赤子の頬に。
 ぽつり、ぽつりと、晴れ渡った空から、小雨が降る。
 赤くない、天からの恵みの雨。
 赤子が泣く。
 血の匂いの立ち込める戦場を切り裂くように、最初の朝を迎えた赤子の泣き声が響き渡る。
 カカシは、鉛のように重い腕を動かして、赤子を抱きあげた。
 まだ生え揃わない金色の髪。ぎゅうっと固く目を閉じて泣く瞳の色はわからない。
 小さな拳。おもちゃのような指と爪。
 ‥‥‥それでもこの子は生きている。
 カカシは、成し遂げた者だけが浮かべる満足そうな笑みを浮かべている四代目を見下ろしながら、母の乳を求めて泣く赤子を抱きしめた。
 赤子の頬は柔らかく、けれど血の匂いがする。産湯に浸からせることなくつれてきたためと、四代目の血によって描かれた封印式のせいだ。
 甘い乳ではなく、血の匂いのする赤子。
「‥‥‥ごめん」
 許して欲しいとは思わない。
 憎みたければ憎めばいい。それだけの重責をおまえに押し付けた。
 贄とするためにおまえを作ったおまえの両親。
 贄とされることがわかっていながらおまえを運んだ俺。
 俺たちは共犯者だった。
 わかっていて、おまえに全ての災厄を封じ込めた。
 おまえの両親はすでにこと切れた。
 その分まで俺を。
 どうか、俺を。
「憎んでいいよ、ナルト」
 ナルト。
 それがおまえの名前。
 封印のための器としてだけおまえを作った両親が、それでも嬉しそうに用意した、おまえの名前。
 膨らみ始めたあの女性の腹を、恐る恐る触れては笑っていた四代目と俺。
 この子が生れ落ちた日に何が起きるのかわかっていながら、四代目の予知が外れることなどないとわかっていながら、間違いであって欲しいと皆が思っていた。
 九尾の器であっても、どうか「人と成って欲しい」と望んだ、身勝手な両親かもしれないけれど。
 それでも彼らはおまえを愛していた。
 そして。
「‥‥‥俺も」


 いつしか、雨は止んでいた。
 俺を憎んでいいよ、ナルト。
 おまえに憎まれるのは、慣れている。


 

 

 

 

 

 

 

 

 カカシは上忍宿舎の一室を借りている。
 暗部まがいの仕事もこなす上忍の住居としては狭すぎる感があるが、父親の残した実家が里の東の森近くにある。貴重な巻物や忍具の類は全てそちらに置き、誰も敷地内に入れないよう強固な結界が張られている。カカシが口寄せで召還する忍犬たちも普段はそちらで過ごしていた。
 どうせ寝に帰るだけ。次の任務に付くまでの仮初めの宿だ。これで充分だった。
 三階建ての宿舎の最上階。カカシの部屋はその一番奥にある。
 ゆっくりと階段を登っていくと、自分の部屋の前に蹲る物体を見つけた。
 カカシはふうっと小さく息をついた。
 来ているのはわかっていた。気配を隠すこともしない少年は小さな太陽のようなものだ。強いチャクラはそのまま気配として現れ、里のどこにいても所在が知れる。
 ナルトもカカシの気配に気付いたようだ。里の中でも無意識に気配を抑えるカカシに気付くとは、自来也との旅は確実にナルトを成長させたらしい。
「‥‥‥先生」
「どうしたの、それ」
 何をしにきた、ではなく。まずそう問うた。
 左頬が見事に腫れあがっている。どれほど深い傷でもすぐに治癒してしまうはずなのに。
 ヤマトの報告を思い出し、何か異常でもと焦る。
 だが、ナルトはへへっと照れくさそうに笑った。
「サクラちゃんに殴られたってば」
「サクラに? 何したの、おまえ」
「んー‥‥‥まあ、いろいろ」
 ナルトは困ったように笑いながら言葉を濁した。
「ふうん? ‥‥‥入るか?」
「いいの?」
「用があるから来たんでしょ。ここの連中は変人ぞろいだから、いつまでもこんなところにいるといいおもちゃにされるよ」
 上忍が癖のある人物ばかりなのは事実だが、その筆頭であるカカシには言われたくないだろう。
 どうするの?と目線で尋ねられ、ナルトは慌てて立ち上がった。
 忍びの里で鍵をかけてもあまり意味はない。階級が上の人間ほど鍵をかける習慣がなく、カカシも例に漏れず鍵をかけていなかった。
 簡単に開いた扉から狭い室内が一望できる。ナルトが借りている小さな一軒家の方がまだ広いだろう。
 何もない部屋だ。テーブルも箪笥もない、ベッドだけの部屋。
 生活感のない部屋の寒々しさに、ナルトはぶるりと身体を震わせた。
「お茶しかないよ」
「あ、おかまいなく」
「おまえもそういうことが言えるようになったんだねえ」
 昔であれば、牛乳じゃなきゃ嫌だとか文句ばかりだったろう。カカシはそっと笑った。
 貰い物の緑茶を出す。テーブルはないから床に直接置くしかなかった。食器の類は一客しかなく、カカシは買ってきたばかりのミネラルウォーターを手にする。
 ふうふうと熱い茶を啜るナルトの頬を観察する。
 口の端も切れているのだろう。時々顔を顰めている。
 やはり、少し治りが遅い。
 人間の限界を超えた力に、ナルトの身体が悲鳴を上げているのか。それとも、殴ったのがサクラだったからか。
 二年半前もそうだった。サスケとの決別となった終末の谷での闘い。あの時負った怪我はなかなか治らなかった。
 情の深いナルトが、さらに情を寄せている人間達につけられた傷は治りが遅い。まるでナルト自身がこの傷を消したくないと望んでいるかのように。
 カカシは小さく息をつきながら、額宛を外し、口布に指を引っ掛けて下ろした。
 すると。
「‥‥‥何?」
 晴れ渡った真夏の空の瞳がまじまじと見つめてくる。痛いような視線の強さに、ことんと首を傾げた。
「や、先生の顔、初めて見たってば」
「そうだっけ?」
「そうだよっ。ラーメン食ってる時だってあっという間だったし、全然隙ないし!」
 力説するナルトにふーんとだけ返す。
「そんなに見たかったら言えばよかったのに。これはただの習慣で、別に隠してるわけじゃないよ」
 口布付きのアンダーは暗部に所属した者なら誰でも使用している。暗殺任務につく時は伸縮自在の布をカカシのように鼻まで覆うのが常だ。それ以外では使用者の好みによる。大抵は咽喉を覆う程度ですませているし、ヤマトのように顎で留めている者もいる。好き好きなのだ。
 カカシは単に、利きすぎる鼻をガードする意味で常に鼻まで布を引き上げている。同じく鼻の利いた父親もそうしていたから、子供の頃から顔の半分を隠すことに抵抗はなかった。
 そういった事情を知らない周囲は好き勝手に憶測してくれたようだが、理由なんてそんなものだ。
 ただ、カカシの経歴がその手の憶測を増長させたことは否定しない。
「‥‥‥だって」
 口篭るナルトに、カカシはくすりと笑った。大方、火傷や傷があって隠していると子供心に思ったのだろう。
 カカシはくしゃりと金色の髪を掻き回すと、ベストや手甲などの装備を外した。細身の身体を覆う黒の上下だけになると、ナルトは何故か困ったように目を逸らした。
「で、どうした?」
「‥‥‥ん」
 ナルトは空になった湯飲みを手の中で弄びながら俯く。
 しんとした空気が流れる。
 遠く、子供の声がする。日が落ちて、外で遊んでいた子供達が家に帰り始める。
 またねー。ばいばーい。おかあさーん。きょうのごはんなに?
 ナルトはその声を追うように、暗くなり始めた窓の外に視線を飛ばした。
 子供の頃、ナルトはその声に取り残された。
 公園で遊んでいる子供を迎えに来た親達に冷たい視線を向けられて、わけもわからず小さく萎縮していた。それでも明るく賑やかな輪に自分も加わりたくて、誰も相手にしてくれないとわかっていても公園へ足を運んでいた。
 そんな幼い頃。
 カカシは、木の上からナルトを見守っていた。
 四代目とナルトの母親からナルトを託されていたが、三代目はそれを許さなかった。些細な刺激も与えるわけにはいかないと、火影の命としてカカシに接触を禁じたのだ。
 納得がいかなかったが、暗部として里の外での任務に付くカカシに赤子を育てられるはずがない。四代目の封印術は未知の部分も多く、万が一封印に綻びが出た場合、里にいれば対応ができると自分に言い聞かせた。
 里に戻ると、一人ぼっちで遊ぶ子供に胸を痛めながら、ただ見守った。
 夕暮れ時はその記憶を呼び覚ます。
 一人で遊ぶ子供を、一人見守っていた。
 黄昏色の刻。
 太陽はとうに沈み、藍色の闇が里を包んでいる。ぽつり、ぽつりと家々に灯りが点り、暖かく家族を迎える。
 ナルトも、そしてカカシも、けして縁のない光景だ。
「‥‥‥」
「ナルト?」
 ふと、ナルトが何か呟いたようだった。
 何か言ったか?と目で問うと、ナルトは窓の外から目を離すことなく、唇を動かした。
「‥‥‥あの時もこんな日だった」
 静かな声に、カカシは小さく目を瞠る。
「夕焼けが綺麗で、山が真っ赤に染まってて。まるで血みたいでさあ」
 ナルトは笑ったようだった。
 けれど泣いているようにも見えた。
 大きく息を吸い込む様が、嗚咽のようで。
「先生、鳥の国って行ったことある? 風の国のそのまた向こうにある小さな国で、国って言うより小さな集落がより集まった感じなんだけど。一年前だったかな、その国にエロ仙人と行ったんだ」
 鳥の国は任務で足を運んだ事がある。
 ナルトの言うとおり、小さな集落が点在する多民族国家だ。ただし、集落同士の諍いが絶えない紛争地帯でもあった。
「その国に入って少しして、俺ってば山の中で恋人同士だって言うにーちゃんとねーちゃんを助けたんだ」
 山歩きに慣れた風でもなく、足をくじいたらしい女に男が肩を貸してよたよたとさ迷っていた。
 見るからにわけありの男女だった。二十を少し越したくらいのその二人は、まったく趣の違う衣服を身につけていたから。
 鳥の国に入る前に、自来也からレクチャーされていた。
 この国では部族間の争いが絶えず、他所の国の人間だろうとそれに巻き込まれれば命を落とす。どんなに小さなことと思っても、それが大きな争いの火種になりかねないから、まずいと感じたらけして近づくなと。
 そして、ナルトはこの二人からトラブルの予感を感じ取った。まずいと思ったのだ。
 二人の話を聞いて、尚更まずいと思った。
 親に結婚を反対されて、二人で逃げる最中などと聞いては。
 けれど。
 ナルトはその二人に手を貸した。
 頭の中でガンガンと鳴り響く危険信号よりも、好きあっているのに結婚を許されない二人を助けたいという気持 ちが勝ってしまって。
 自来也は取材と称してナルトを山小屋に残し、一人麓の集落に足を運んでいて留守にしていた。もしその場にいれば、けして許さなかっただろう。
 足をくじいた女を背負って、男とともに目的地だという集落に向かった。そこの集落に知り合いがいて、二人を匿ってくれるとのだと男は笑っていた。集落の中に入ることはしなかった。なんとなく、嫌な感じがしたから。
 二人はナルトに大層感謝していた。それで充分だったのだ。
 その二日後のことだった。
 ナルトたちが拠点としていた山小屋の近くの集落二つが、女子供まで手に手に鍬や鎌など刃物を持って殺し合いを始めたのだ。
 その争いは山小屋からも見えた。
 木の葉のアカデミーに通い始めたくらいの子供までが、小さな手に包丁を握って、あどけない顔に憎憎しい表情を乗せて、同じくらいの年頃の子供に襲い掛かっていた。
 ナルトは止めようと飛び出そうとした。だが、自来也に止められてかなわなかった。
 どうして?!と食って掛かるナルトに、争いが起こるにはそれだけの理由がある。それに介入する権利は自分たちにはないと。
 争いは夜明けまで続いた。
 全てが終わったと思われた頃、ナルトと自来也は山を降りて集落に入った。
 充満する血の匂い。目を開いたまま路上に転がる子供。その手には鎌を。腰の曲がった老婆も血に染まった杖を握り、烏に啄ばまれていた。
 呆然とするナルトに、自来也は淡々と言った。
「これが戦争だ」と。
 戦争に正義などない。理屈もない。
 ただ、自分達以外は悪なのだ。
 相手が悪いから戦う。殺す。自分と家族を守るために。
 それだけのことだ。
 国同士の戦争ともなればこんなものではすまない。里持ちの大国ともなれば戦いは数年に及ぶ。その間の犠牲は計り知れない。
 火の国が戦争を始めれば、当然火の国の軍事力そのものである木の葉隠れが投入される。それが国と里との契約なのだ。
 自来也は生きる者のいなくなった小さな集落を隅々まで回った。足が止まりそうになるナルトの背を叩き、戦争の何たるかを教えていく。そして、戦争になった時の忍びの役割を。
 下忍とはいえ、ナルトも忍びだ。他人の血など見慣れている。死体だって何度も見てきた。
 けれど、忍びでもなんでもないただの村人同士の戦いを見るのも初めてなら、戦いの後の場を見るのも初めてだった。つくづく、忍びは綺麗に人を殺すのだと思い知らされた。それほど集落の中は凄惨を極めた。
 やがて、集落の集会場と思われる場所に着いた。誰も生きていないだろうと中を覗き込むと、小さな呻き声が聞こえた。慌てて駆け寄ると、長らしき老人が腹から血を流して倒れていた。
 自来也が駆け寄り、何事か話しかけている。どうやら顔見知りだったらしい。老人は自来也の手を握り、切れ切れに何か伝えている。
 その言葉を拾っていたナルトは、呆然とその場に立ち尽くすことになった。
 この集落と対立関係にあった集落の男が、老人の孫娘を浚ったのだと。その男は以前から孫娘に懸想をしており、結婚を申し出ていたが許されるはずもない。挙句に、娘を拉致したのだと。
 ――――山の中をさ迷っていた、わけありの男女。
 やがて老人はこと切れた。
 そうして、ひとつの、いやふたつの集落が完全に滅んだのだ。この集落は相手の集落に火を放ち、全て灰と化していたから。
 ナルトがあの二人に手を貸したせいで。
 数時間後、ナルトは二人を連れて行った集落に一人で向かった。
 集落の入り口を守る体格のいい男に、逃がしたあの男を呼んでくれるよう頼んだが、そんな奴はいないと殴られた。無論、それで納得するはずがない。修行中とはいえ忍びであるナルトには突破するのは容易く、やたらと迫力のある村人ばかりの集落に入って二人を探した。
 そして、ナルトは見た。
 死んでから数日は過ぎただろうあの男と、その恋人を。
 その死体は無残なもので、寄ってたかって殴られたのが見て取れた。それでも男は守るようにして女を抱え込み、無残な男とは正反対に女の死体は綺麗なものだった。
 最後は二人、槍のようなもので貫かれて。
 ナルトは。
 ――――ナルトは。
 その集落の人間全員、殺した。
 夕焼けの綺麗な日のことだった。
 こんな風に。
 ガシャッ、と。
 ナルトの手の中の湯飲みが砕けた。
 淡々と話すナルトの口調に反し、その手には湯飲みを砕くほどの力が篭っていたのだろう。粉々に割れてしまっても、ナルトは手の中のものを離さない。陶器の破片はナルトの掌を傷つけ、指と指の間からつうっと血が落ちた。
「――――その集落は抜け忍の集まりで、回りの集落を飲み込んででかくなっている最中だったって、後で聞いた。あの二つの集落はそれに抵抗していて、手っ取り早く潰すために二人を唆したんだろうって」
 いずれは潰されていたかもしれない集落だった。だが、それを早めたのは間違いなくナルトだ。ナルトの安易な人助けが、何十人というただの村人を死なせた。
「俺のせいだ‥‥‥っ!」
 呻くように、ナルトは呟いた。
 カカシは黙ったままその手を取って開かせる。
 陶器の破片が食い込み、ナルトの手を傷つけている。見る間にふさがっていく傷が、ナルトにとっては忘れたい記憶なのだろうと思わせた。
 けれど、ナルトは忘れない。
 忘れたくとも忘れない。
 思い出すたびこうして自分を傷つけて、忘れたいと願っても忘れられない。
 カカシは陶器の破片をひとつずつ取り除く。
「おまえのせいじゃない、なんて言わないよ」
「わかってるってばよ‥‥‥」
 ナルトは泣きそうな顔で笑った。
「先生にさ、覚悟してるかって言われて、ちょっとドキッとしたってば。わかってたはずなんだ。良かれと思ってしたことでも、それがどう転ぶかわからないんだって。最悪、助けたいと思ったものまでズタズタになるんだって。サスケは大蛇丸の力が必要だから自分からあっちにいったわけで、俺が連れ戻そうとするのはあいつにとって余計なお世話だって」
 でも、それでもあきらめられないとナルトは呟いた。
「俺の我侭なのはわかってる。サスケが力を手に入れる代わりに大蛇丸に身体を盗られるのなんて、嫌だ。サスケがいなくなるのは嫌だ。サスケがそれを全部覚悟してても、でも俺は嫌だ。そうか、じゃあ頑張れよなんて、死んでも言えないってば」
 でも。
 だけど。
「それで先生やサクラちゃんを死なせるようなことになるのも、嫌だ」
 ナルトは傷ついた手で、カカシの手を取った。痛いほど力を込められて、カカシは小さく顔を顰める。
「先生」
 蒼い瞳が、狐火のように燃えている。
 いつかどこかで見た、蒼い炎。
「大事なもの全部守るために、俺は強くなりたい。いいや、強くなる。だから先生」
 ――――だから、カカシ。
 ――――里を守るために、力を貸して。
「俺が強くなるために、力を貸して」
 カカシは何かを懐かしむように、笑った。
「いいよ」
「‥‥‥ホント?」
「俺はおまえには嘘をつかないよ」
 言わないことはあっても。
「力を手に入れて、それでおまえがどうするか、見ててやるよ」
「見てるだけ?」
「見てるだけ」
 カカシは整った貌に、冷たくも見える微笑を浮かべた。
「おまえが間違えても、俺は何も言わない。力を手に入れて、好きな方向へ走っていけばいい。それで力尽きて倒れても、その程度だったと思うだけだ」
「先生、冷たいってば」
「なあに? まさかずっと側でああだこうだってアドバイスして欲しいわけ? 甘いこと言ってんじゃないよ。自分で決めたことなんだろ。自分のケツは自分で拭いな」
「ケ、ケツって」
 ナルトは何故か顔を赤らめてうろたえる。
 困ったように視線をさ迷わせると、やがて大きく息を吐いた。
「‥‥‥先生も覚悟して欲しいってば」
「あ? なに?」
「なんでもない!」
 ナルトは大きく息を吐き出すと、吐き出したら腹が減ってきたと呟いた。
「何か食べにいく? 生憎この部屋で料理を作ったことなんかなくってね」
「じゃあ、先生の快気祝いに一楽行こう!」
「ラーメン食べる気分じゃないんだけど」
「大丈夫! 一楽の姉ちゃんが最近鳥粥を店に出してるってば。試食させてもらったけど美味かったよ。俺には物足りないけど」
「だろうねえ。でも、鳥粥か。いいな」
「俺が奢るし!」
「元生徒に奢ってもらうほど落ちぶれちゃいませーん」
「駄目! 俺が奢る!」
「ふうん?」
 言い張るナルトに、カカシは首を傾げた。
「ま、いいけど」
「じゃ行こう! 混んでるとゆっくり出来ないし」
 ナルトはずっと握っていた手を引くと、腰の重いカカシを立ち上がらせた。
「おいおい」
 力任せに強引に立ち上がらされて、カカシは前のめりに踏鞴を踏んだ。
 ふと、唇を何か掠めていく。
 藍色の闇の中、それが何か、わからなかったけれど。
 しかし、感触でわかる。
 あれは。
「先生、行こう!」
「‥‥‥うん」
 カカシは目を細めてナルトを睨むが、ナルトはどこ吹く風だ。
 ‥‥‥まあ、証拠はない。
 カカシは大きく息を吐くと、ナルトに掴まれたほうでない手で口布を引き上げた。
「あ、寒いからベスト着ていくってば」
「いーよ、このままで」
「目の毒だから駄目!」
「‥‥‥なに言ってんの、おまえ」
「いいから!」
「はいはい」
 カカシはもーなに言ってんだろこの子とばかりに息を吐き、いつものようにベストを羽織り、額当てをつける。
 早く早くとナルトにせかされて、ぱたんっと扉を閉める。
 そして、部屋は藍色の闇に包まれる。
 小さなキスの感触を置き去りにして。