恋狐と白い鳥
それは幼い頃の記憶。
俺は、泉で遊ぶ白い鳥に恋をした。
「うっしっ!」
ナルトは会心の笑みを浮かべて握った拳をぐっと引いた。その手には、ついさっき火影直々に渡された任命書が握られている。
「お、通ったのか」
「もっちのろんよ!」
通りすがりのシカマルに高らかにXサインを見せる。満面に笑みを浮かべたその様子は、どんなに図体はでかくなっても子供の頃と変わらない。
怒涛のような受付の勤務を終えたばかりのシカマルは、屈託のないその表情に少しだけ疲れを忘れた。
手を抜けるならどこまでも手を抜きたいシカマルだが、周囲はそう甘くなかった。爪を隠した鷹を放っておく気なんかさらさらないとばかりに酷使してくれるからたまらない。最近は受付よりも参謀室に長く詰めている。完全にあちら詰めになる日もそう先の話ではないだろう。
「ついに上忍か」
「おうさ!」
なんだかんだ言って、とんとん拍子に昇格する奴だなと、シカマルは苦笑する。
同期の中ではネジがいち早く上忍となり、続いてシノとサイが。シカマルとサスケ、リーが特別上忍となっているが、サクラやいの、キバたちは未だ中忍だ。それほど中忍から上忍へと至る壁は厚いのだ。
自分たちの世代が粒ぞろいといわれ、上下の世代に比べても昇格が早いのはわかっている。が、恐ろしいほどのスピードで能力を高めていく奴が近くにいると、己がどうしようもなく劣っているように感じられてしまうのは仕方がない。
ガキだったサスケが、焦って里抜けなんて真似をした気持ちが少しわかるような気がする。
サスケも、里抜けなんかしていなければ今頃は上忍だっただろう。本人は今となっては気にしていないようで、戻ってきてからは憑き物が落ちたように淡々と自分がなすべきことをこなしている。そしてまた、そんな姿がクールでかっこいいとくの一たちに熱い視線を送られるわけだが、当のサスケは相変わらず辟易しているようだった。
「おめでとさん。久しぶりにみんなで集まって騒ぐか」
「いーね。もちろん奢りだよな」
「ま、たまにはな」
「やりっ!」
「いつにする。今ならリーもシノも里にいるし、今夜にするか?」
「あー、悪い。今夜は俺がパス」
ナルトは顔を曇らせて、手をひらりと振った。
「そうなのか? じゃあ明日でどうだ」
「明日なら大丈夫!」
「んじゃ明日な。他の連中には俺が伝えておいてやる」
「サンキュー!」
じゃーな!と、ナルトは大きく手を振ると、その場から掻き消えた。
相変わらず旋風みたいな奴だなと、シカマルは肩を竦める。その性質のままに風のようなナルトは、すぐにどこかに飛んでいってしまう。
シカマルは大きく欠伸をすると、夜勤明けの身体を動かした。正直、今夜集まるとなると自分もきついところだったので、ナルトの都合はちょうどよかった。
それにしても。
「あいつ、どこに飛んでいったんだ?」
幼い頃は大きな屋敷で暮らしていた。
とてもとても広い部屋。広い敷地。
だけど、とても冷たい場所。
突き刺さる冷たい視線が嫌で、怖くて、よく屋敷を抜け出しては裏手にある森で遊んだ。
鬱蒼とした森は恐ろしかったけれど、それでもあの冷たい視線に比べれば何倍もましだった。
森はどこまでも続いていて、果てなどないようだった。少しずつ少しずつ、奥へと踏み込んでいった。時折恐ろしい獣に遭遇することもあったけれど、彼らは何故か、自分を見ると逃げ出した。まるで自分の方が恐ろしい獣だといわんばかりに。
獣にさえ嫌われるのかと、少し悲しくなった。
そうしてまた、森の奥へと踏み込んだ。
屋敷からどれほど離れたのだろう。背の高い木々に覆われて暗かった視界が急に開けた。
眩しさのあまり目を閉じて、そろそろと開けてみれば、そこには透き通った水を湛えた泉があった。
美しい泉だった。
そこだけ開けているため太陽の光が降り注ぎ、水面がきらきらと光っていた。
そして。
その美しい泉で、一羽の白い鳥が羽を広げて遊んでいた。
「カカシ先生、はっけーんっ!」
「おっ」
上忍待機室でいつものようにエロ本片手に待機していたカカシは、突然飛び込んできた弟子にそのままの勢いで抱きつかれ、長椅子の上で体勢を崩した。
「おまえねえ、いい加減自分の図体考えなさいよ」
「あー。悪いってばよ。先生が小さくなったのつい忘れて」
「おまえがでかくなったって言ってんでしょ」
ごつんっと拳をくれてやれば、ナルトは大げさに頭を抱えた。本当は痛くなんかないくせにとひっそりとため息をつきつつ、カカシはすっと手を出した。
「で、どうだったの。見せてみな」
「もちろん完全勝利!」
ナルトは握りすぎてぐしゃぐしゃになった任命書をカカシに差し出した。
皺だらけのそれに呆れた顔をしながらも、カカシはその文面を流し読むと、嬉しそうに目を細めた。
「ん、よし。よく頑張ったな」
「へへっ」
ナルトは誇らしげに胸を張り、笑った。
中忍選抜の時とは違い、上忍昇格には試験はない。まず数名の上忍から推薦され、その能力と実績を多方面から分析し、選抜され、最終的にご意見番と火影により上忍の資格ありと判断されれば登用される。
木の葉のご意見番は二人。他の里よりは通りやすいといわれるが、そのご意見番たちこそがナルトの最大の障害だった。
彼らは、九尾を抱えたナルトを快く思っていない。忍びなどもっての外。厳重に結界を張り巡らせた箇所に生涯軟禁すべしと、ナルトが赤ん坊の時から言い続けてきた年寄りどもなのだ。
ご意見番たちが、ただ単にナルトが憎くてそんなことを言っているわけではないのはわかっている。里のために、小さな綻びも見逃せないのだ。ましてや、火影は代々理想と情を優先する傾向にある。その頭を冷やすためにも、あえて酷薄ともいえる提案をするのも彼らの務めだった。
ともあれ。
そのご意見番たちの承諾も得た。任命書には彼ら二人の名前もちゃんと書かれている。すなわち、晴れてナルトは上忍の一人となったのだ。
「おめでとう」
「ありがとう。先生のおかげだってば」
「俺は何もしてないよ」
嘘だ。
ナルトは心中で呟いた。
ナルトが上忍になるには、カカシ以外の上忍からも推薦を受けなければならない。最低でも四人。通常はそれで充分だが、後ろ盾のないナルトの場合それ以上の数が必要だった。
カカシはガイや紅、そのほか数名の上忍の推薦を集めてきてくれたのだ。
それがどれだけ大変なことか、ナルトにだってわかる。
ナルトはこつんと、カカシの胸に額を押し付けた。
「先生、ありがとな」
「これからこき使われるよ。覚悟しときな」
「おう」
顔を上げたナルトはにっと笑った。
「先生、今夜ヒマ?」
「ん? うん、予定はないよ」
「じゃあさ、呑める場所でご飯食べよ。俺、奢るし」
「おまえが? 逆じゃないの?」
「上忍になったらカカシ先生に奢るって決めてたんだ。んで、イルカ先生には上忍になって初めての報酬で一楽のラーメン!」
「そりゃまた嬉しいねえ。自来也様には?」
「エロ仙人なんか知らねえってば。全然里に寄りつかねえじゃん」
「泣くよー?」
「んじゃ、帰ってきたらなんか考える」
「そうしたげな。きっと喜ぶよ」
あの人にとって、おまえは孫のようなものだから。
カカシは声に出すことなく呟くと、金色の頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「じゃあ、今夜な」
「おう! 遅刻すんなよ、先生!」
「はいはい」
ひらひらと手を振ると、ナルトは飛び込んできた勢いのままにまた飛び出していった。
そんなナルトの背中を見送ると、カカシは静かに微笑し、再び愛読書を開くのだった。
きらきら、きらきら。
白い鳥は銀色に輝く羽を水面に広げて、きらきらと光る水の中に身体を沈めて水と戯れている。
なだらかな曲線を描く、白い肢体。
柔らかに膨らんだ胸もまた白く、つんっと尖ったその頂は桜色。
伏せた目は銀を散らした蒼と、艶やかな柘榴のような紅。
しなやかに白い腕で水を飛ばし、光の中、水と戯れる。
美しい鳥だった。
泣きたいほどに、とても、とても。
その時、恋に落ちた。
美しい泉で、水と遊ぶ、その綺麗な鳥に。
ナルトは恋をしたのだ。
「先生、呑みすぎだってば」
「ん〜〜〜‥‥‥」
「もー、俺が悪い奴だったらお持ち帰りして喰っちゃってるとこだぞ」
ナルトはやれやれと盛大なため息をつき、見た目に反してひどく軽い身体を背中に担いだ。
カカシは身長は高いが、絶対的に重量と横幅が足らない。パワータイプの忍びと当たると弾き飛ばされてしまうため、そのスピードを生かした動きで翻弄して対処する。
収まりが悪いのか、しばらく背中でもぞもぞと動いていたカカシは、やがてナルトの首に腕を巻きつけるとようやく落ち着いたらしく、ほっと息を吐いた。
身体が密着する。
ナルトは切ない息を吐いた。
「‥‥‥ほんと、いっぺん術も何もかも無効にしてひん剥いてやろうか」
やろうと思えばできる。
子供の頃、誰も文字を教えてくれなかった。
三代目は身の安全と生活を保障してくれたけれど、里を建て直すために火影に復帰した数年は屋敷に戻ることもまれだった。誰も、何も教えてくれなかった。
文字が読めなかったから、アカデミー時代は勉強が嫌いだった。知らないから教えてくれと頼むことができずにいたナルトにようやくイルカが気づき、根気強くひらがなとカタカナから教えてくれたおかげで、卒業するまでにはどうにか読み書きできるようになったけれど、漢字は相変わらず読むこともできなかった。
下忍になってそれが知れると、カカシを始め周囲の大人たちが暇を見つけては漢字から忍び文字から教えてくれるようになった。そのおかげで、今ではどんなに古い忍術書でも読むのに何の苦労もない。
不思議なもので、読めるようになると勉強が苦にならなくなった。師である自来也が里に残したままの貴重な忍術書を紐解く許可をもらってからは、ナルトの読書量はかなりのものだった。
だから。
カカシが日常的に使用している術を無効にしようと思えば、ナルトにはできるのだ。最小限のチャクラで長時間姿を変える術も、それを外部から解く術式も、以前読んだ古い忍術書に書かれていたものだから。古すぎて忘れられた、神事のための術。
もちろん、そのためにはいくつかの条件が必要だ。
例えば。
対象の、本来の姿を知っていることなど。
――――かつて恋をした、泉で遊ぶ白い鳥。
柔らかな肢体。柔らかな胸元。美しい貌。色違いの瞳。
水に濡れた身体はどこまでもしなやかで、きらきらと光る水面には銀色の長い髪が羽のように広がっていた。
そして、やはり濡れた淡い茂み。
その奥に秘められた、しっとりと露を含む蕾を想像すれば、ナルトの下肢はたやすく熱を持つ。
ふるりと揺れる白い胸。その頂はつんと尖った桜色。
白い咽喉元から胸元の谷間へ、つっと伝った水滴が、たまらなく艶やかだった。
「ませたガキだったよなあ」
泉で水浴びをする美しい少女に恋をした当時、ナルトは三歳かそのくらいだったはずだ。性欲のなんたるかも知らないチビのくせに、全裸のカカシに欲情するとは。
はあっと、ナルトはもう一度盛大なため息をついた。
だが、思うのだ。
水浴びをするカカシはナルトに気づいた様子はなかったが、本当にそうなのか。
あの当時、カカシは暗部として前線で活躍していたはずだ。水浴びしていたのも、おそらく返り血を落とすためだったのだろう。
それとなくヤマトに探りを入れてみたが、カカシが性別を偽っていることは知らないらしい。五代目はさすがに昔馴染みなだけあって知っているようで、ヤマトでさえ気づかなかったナルトの探りにも、意味ありげに艶やかな唇を歪めてみせた。釘を刺されなかったのは、認めてもらえたのだろうか。
たとえ認めてもらえなくても、あきらめるつもりはさらさらないが。
長い間、恋をしてきた。
冷たいばかりの世界で、この恋心はただひとつ輝く宝物のようなものだった。
その相手がまさか、男として生きている凄腕の上忍だとは思わなかったが。あの少女が自分の上忍師だと気づいた時の歓喜と絶望は、到底忘れられそうにない。
「まあ、じっくりやるさ」
ずれ落ちそうになる身体を担ぎ直しながら、星の瞬く夜空を見上げた。
ようやく見つけた白い鳥。
ずっとずっと恋し続けてきた綺麗な鳥。
こちらが伺っていることに気づいている鳥が、羽ばたいて逃げていかないように、焦らずに、じっくりと。
それが。
「狩りの基本だよな」
恋する狐はそう嘯いて、にやりと、牡の顔で笑うのだった。
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