幕間

 



 あの人は俺のことを下僕か何かだと思っているに違いない。
 テンゾウは手にしたビニール袋を持ち上げて眺めつつ、深いため息をついた。
 あの人、というのは、暗部時代に何かと面倒を見てもらったはたけカカシのことだ。
 彼ほど木の葉の里で有名な人間はいないだろう。そしてまた、暗部の中でも有名な人物だった。
 暗殺特殊戦術部隊。通称暗部。
 階級に関係なく、優れた能力を持つ者が所属する、火影直轄のいわば木の葉のエリート集団だ。
 従うのは里ではなく、火影のみ。たとえご意見番であろうとも暗部に命令は出来ない。したところで暗部は指一本動かさない。
 その任務は正規部隊が目を背けるようなものも多く、能力だけでなく精神的に強固でなくては早々に潰される。カカシはその暗部で十六年間を過ごしてきた。
 カカシよりも年齢が上の者は数多い。しかし、カカシよりも在籍期間の長い者はいない。
 何故ならば。
 十六年前のあの夜、九尾を封印した四代目の露払いとなって、当時の暗部は全滅したからだ。
 十四歳だった、カカシ一人を残して。
 四代目の残したただ一人の暗部。ただ一人の弟子。
 暗部の中でさえ伝説にさせられてしまった少年。
 が、それも無理はなかった。
 九尾の災厄で里は優秀な人材を多数失った。その当時の混乱ぶり、人材不足を示すかのように、彼は任務に明け暮れて、帰還して報告を終えるとまたすぐ任務に出て行くという有様だった。
 暗部に在籍していてもその姿を見たことはないという人間が増えていき、ついにはとうに死んでいるのではないかとまで言われるようになる始末だ。
 それほど、彼は酷使されていた。
 三代目はカカシを潰す気なのかとまで囁かれたが、当のカカシが里に腰を落ち着かせて休息を取ることを厭うような態度でいたため、そんな不穏な噂もやがてかき消えた。
 テンゾウは能力的にカカシと相性が良く、ツーマンセルを組むことが多かったので彼の人となりに触れる機会が多かった。あのイタチが里抜けなんかしなければ、そんな機会もなかったかもしれないが。
 単に、カカシは煩わしかったのだと思う。
 周囲の好奇の視線はもちろん、労わるような視線すらも。
 絡み付くその全てが、カカシにはうっとおしいものだったのだろう。
 そのカカシが、上忍師にとなって下忍にあたることになった時は、仲間ともども心底驚いたものだ。
 つい昨日までカカシとともに火影直々に下された任務についていたテンゾウは、仲間たちから総攻撃された。
 確かに、しばらく前から上忍師の任に付くよう里に要請されていたのは知っていたが、下忍候補の子供たちは全てアカデミーに送り返していたはずだ。
 それなのに、いきなり何故。
 だが、その疑問もすぐに解けた。
 彼が受け持つ下忍たちの名前を聞けば、すぐにでも。
 なにせ、里の誰もが忌避する名前が二つ、並んでいたのだから。
 つまりは、暗部を退いたと表向き言われているが、何のことはない。この上忍師の任自体が暗部としての任務なのだ。
 ならば、下手にちょっかいをかけてはいけない。
 現役の暗部たちは、内心の寂しさを押し隠して慎重にカカシたちから距離をとったのだった。
 それが、三年前のこと。
 そして現在。
 久しぶりに顔を合わせたカカシは、病院のベッドに横たわっていた。
 何でも、救援要請のあった砂隠れの里に部下を率いて赴いたは良かったが、待っていたのはイタチのお仲間である暁のメンバーたちだったらしい。
 あのイタチと肩を並べるのだ。どれほどの化け物かと思い、報告書を盗み見てみると、様々な里のビンゴブックのトップに名前の載る最上級の化け物どもだった。
 かろうじて倒したものの、一人は確実に息の根を止めたが、もう一人は肉片すら残っていないらしい。つまり、逃げられた可能性が高いという。
 さすが、あの大蛇丸が恐れる組織だけのことはある。
 そしてカカシはといえば、写輪眼の新しいオリジナル技を試した結果、チャクラを根こそぎ喰われてこの有様だとベッドの上で笑っていた。
 部下たちにはへらへら笑って誤魔化したが、実際は笑い事ではなかったようだ。一人で歩くどころか、人間が死に至るぎりぎりまで体温が下がり、生命維持活動も危うかったらしい。
 カカシの無言の圧力により黙っていたが、その状況の危うさを正確に判断したガイは強引にカカシを負ぶさり、白眼によりやはり状況を察した日向ネジは無言で仲間たちに先を急がせた。そしてそのまま、木の葉病院に叩き込まれたのだそうだ。
「まったく、無茶ばかりするから」
 ため息をつきつつ、ぼやく。
 病室で会ったカカシの肌は、白を通り越して青ざめてさえいた。おそらくまだ体温を調節できない状態なのだろう。
 カカシが入院するのは珍しいことではない。
 無茶をするのは暗部時代からで、任務を終了して里に戻った途端ひっくり返るのはわりと良くあることだった。
 カカシは優秀な忍びだが、写輪眼という決定的な爆弾を抱えている。あの忌まわしいチャクラ喰らいの化け物を。
 うちは一族の売りである、いや、売りだった写輪眼は使い勝手のいい瞳だが、カカシの身体と相性が悪い。そもそも、今まで散々行われてきた移植手術でも成功した例はないのだ。それほどあの「瞳」は気位が高い。まさにうちは一族そのものだった。
 その気位ばかりが高い「お坊ちゃま」が何が気に入ったのか知らないが、カカシの左目に取り付いて、しかも使えてしまったからまずかった。
 カカシの出自であるはたけの家系は純粋な戦忍だ。己の肉体と精神だけを頼りに戦場を駆ける、一筋の稲妻のごとき血筋のはずだった。
 はたけそのもののようなカカシに、澱んだ黒い炎のような写輪眼が合うはずがないのだ。
 うちはの生き残りが里抜けした現在、写輪眼の最後の一粒を惜しむ里の意思はわかる。だが、その結果チャクラをいいように喰われて使い物にならなくなってしまい評価を落とすカカシはいい面の皮だ。
「さっさと取り出せばいいのに」
 それは、テンゾウだけでなく当代の暗部全員が思っていることだ。
 今いる暗部でカカシの世話になっていない人間はいない。
 暗部は火影とともに。
 そうとわかっていても、カカシは特別なのだ。
 テンゾウはふと苦笑する。
「下僕扱いでも、まあいいか」
 頼りにされていることに代わりはないのだから。
 ぷらぷらとビニール袋を揺らしながら木の葉病院に入り、慎重に隠された病室の扉を叩く。返事を待つまでもなく押し開けると、かの人は相変わらず読書中だった。
「先輩、買ってきましたよ」
「お、悪いな」
「どういたしまして」
 テンゾウだけであれば、カカシは鼻まで覆ったマスクを下ろす。生きた人間とは思えない幽玄の美貌があらわになり、見慣れているはずのテンゾウでさえ、一瞬見惚れて息を飲んだ。
「なあに?」
「いえ、相変わらずお美しいなと」
「あ、そ」
 本気の賞賛もカカシには届かない。言われ慣れているからだ。
「そう、これこれ。ありがとな、テンゾウ」
「今はヤマトです」
「へー」
「僕の話、聞いてます?」
「聞いてるよ。でもヤマトって柄じゃないよ。テンゾウのほうが可愛いぞ。テンゾウ」
 ふと、どこからか吹き出す気配がする。たぶんこの病室を護衛している暗部の誰かだ。
 後で半殺しと、頭の中の余白に書きとめておく。
 カカシはといえば、そんなテンゾウの殺気に気づいているだろうに、無邪気に買ってきてもらった茶葉の匂いを嗅いでいる。
 頼まれたのは、里の商店街にある店のお茶だった。あの店でこの銘柄をこれだけの量でと事細かな注文だったが、そんなにいいものだろうかとつい首を傾げる。
 その様子に気づいたのか、カカシはくすりと笑った。
「新茶なんだよ。そこの店で熟成されたもので量も少なくて、この時期に買い逃すと来年まで待たなきゃいけないんだ」
「へえ」
 よくわからない。
 カカシはますます笑ったようだった。
「さすがにここじゃ酒は止められてるしね、酒の次に好きなものを楽しむくらい、いいだろ?」
「ああ、そういうことなら」
 酒が駄目なら美味いお茶ということらしい。
「テンゾウ、淹れて」
「‥‥‥僕が淹れるんですか」
「俺は動けないもの」
 カカシはにっこり笑って言った。
「言っとくけど、熱湯で淹れたら台無しな茶葉だから。まずく淹れたら殺す」
「その身体で?」
 少し意地悪く言えば、さらに上をいく意地悪な笑みを返される。
「簡単だね。向こう三年は指一本俺に触れることを許さない」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥誠心誠意、全力で淹れさせて頂きます」
 テンゾウは悲壮なほど覚悟を決めて、茶道具を手に取った。
 その結果、とりあえず三年触るなとは言われずにすんだ。

 

 

「ナルトのことだけど」
 カカシお勧めだという新茶の相伴を預かっていたテンゾウは、切り出された名前に目を上げる。
「三年前に比べれば格段にコントロールが出来ているけど、まだまだ自分のチャクラに翻弄されているから、その辺気をつけてやって」
「承知しています」
「おまえに不安はないんだけどなあ。とにかくあいつは意外性ナンバーワンな奴だから、次になにやらかすかまったくわからない。予測できないことがこんなに怖いなんて思わなかったよ」
「そこまで?」
「そこまで」
 問う形のテンゾウに、カカシは力を込めて言った。
「螺旋丸を使えるくらいだ。あいつのチャクラの性質は風だと思ってほぼ間違いない。つまり」
「‥‥‥それは、扱いにくいですね」
「そうなんだよ」
 カカシとテンゾウは思わず顔を見合わせてため息をついた。
 風の性質を持つ忍びは多くない。上忍ともなれば複数の性質のチャクラを扱えるものだが、やはりもって生まれた資質は大きい。数少ない風の忍びで名が知れているのはアスマで、攻撃力の大きい中距離タイプとして重宝されている。
 だが、ひとつだけ問題があった。
 もって生まれたチャクラの性質は、どうもその気性や性格にも影響を及ぼすものらしい。
 そのいい例がうちは一族で、火の性質を持つ彼らはまさしく炎のような激しい気性の持ち主の集まりだった。
 風の性質を持つ人間でカカシが知るのは、アスマの他は三忍の一人である自来也と四代目で、つまり。
「目を離したらどこに飛んで行くかわからないからそのつもりで」
「‥‥‥脅かさないでください」
「脅かしてないよ。本当のことだよ。アスマは三代目の息子って言う鬱屈があったから大人しい方だったけど、それでも一度は里を離れてるしね。でも、風そのものだった自来也様と四代目ときたら」
 当時を思い出したのか、カカシはそれはそれは遠い目をした。
「‥‥‥苦労したよ」
「心中お察しいたします」
「まあ、今ではいい思い出だけどさ。ナルトはそれ以上に爆弾を抱えてるから、念のため」
「ありがとうございます」
「サクラは九尾のことを知っている。綱手様に師事してだいぶ使えるようになっているから、そこそこ頼りになると思う。頭脳もシカマルに及ばないまでも、知識量はかなりだから」
「先輩」
 なおも言い募るカカシの言葉を、テンゾウは短く切った。
 カカシの色違いの目がテンゾウを見る。真正面から。
 けれど、じっと見返すと、やがてその視線は落ちる。毛布の上で握り締められた、自分の拳へと。
 いまだ全快には程遠い、青ざめたままの肌。
 今の自分がどれほど使えないか、誰よりもそれをわかっているのは当のカカシだろう。思うように動かない身体に苛立っているのも。
 ‥‥‥だから、あんな目なんかさっさと捨ててしまえばよかったんだ。
 たとえ親友の形見だろうと。
 唯一里に残った天眼だろうと。
 あんな忌々しい目、任務中に抉り出してしまえばよかった。
 テンゾウはそんな思いを押し隠し、できるだけ穏やかに口を開いた。
「大丈夫です。子供たちはちゃんと生きて里に戻しますから」
 ちゃんと預かりますから、だから。
「そんなに心配しないでください」
「‥‥‥おまえを信頼していないわけじゃないんだ」
「はい」
「あいつらの力を信用していないわけでもないんだ」
「はい」
「ただ、」
 ただ、と。
 カカシはうまい言葉が見つからないのか、何度も何度も言いあぐねて。
 そして。
「‥‥‥ただ、俺が付いていきたかっただけだ」
 静かに静かに、そう呟いた。
 自分が不在の間に、一人里抜けを決意した弟子の一人を。
 道を間違えて迷子になってしまった子供を。
 できることならば、三人で迎えにいきたかった。
 それでもサスケが拒むのならば、せめて自分の手で、と。
 ただ、それだけ。
 カカシは疲れた様子で苦笑する。
 そんな表情さえ美しく、テンゾウは手を伸ばしてしまいそうな自分を叱咤した。
「――――あなたの代わりなんて、僕には出来ません」
「うん」
「うちはの子供が本気でかかってくれば、僕は反撃します。場合によっては殺します」
「うん」
「ナルトも、戻れないレベルまで九尾化したら相打ち覚悟でかかります」
「‥‥‥うん」
「あなたの代わりになんてなれません」
「テンゾウ」
「だから」
 だから、カカシ先輩。
 テンゾウはそっと手を伸ばすと、その白い頬を包み込んだ。
 里でもっとも美しいといわれる貌を見つめながら、
「早く復帰してください。僕らを踏みつけにするあなたでないと、どうにも調子が狂います」
「‥‥‥おまえ、根っからのMだね」
「人によりますよ。たいていの相手は苛める方が好きです。苛める先輩がとんでもなく綺麗だから、先輩には踏まれても楽しいんです」
 冗談めかして笑えば、カカシも困ったように笑う。
「馬鹿だねえ、おまえ」
「そうですか?」
「そうだよ」
「そうでしょうか」
 カカシには踏まれたい仲間は暗部内には大勢いる。だから、それほどおかしいと思ったことはなかった。
 本気で首を傾げるテンゾウに力が抜けたのか、カカシはしばらくくすくすと笑っていたが、やがて、ちょいちょいと、指先で差し招いた。
「おいで、テンゾウ」
「はい?」
「踏んであげる」
 それは綺麗に微笑みながら、テンゾウの首に腕を絡め、引き寄せて。
「精神的にね」
「‥‥‥光栄です」
 テンゾウはそっと痩せた身体を抱きしめる。
 そして。
 ぎしりと、ベッドが軋んだ音を立てた。

 

 

 この二日後、もう一人を加えた新生七班は天地橋へと出立する。
 その幕間。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 恋狐と白い鳥

 

 

 

 それは幼い頃の記憶。
 俺は、泉で遊ぶ白い鳥に恋をした。

 


「うっしっ!」
 ナルトは会心の笑みを浮かべて握った拳をぐっと引いた。その手には、ついさっき火影直々に渡された任命書が握られている。
「お、通ったのか」
「もっちのろんよ!」
 通りすがりのシカマルに高らかにXサインを見せる。満面に笑みを浮かべたその様子は、どんなに図体はでかくなっても子供の頃と変わらない。
 怒涛のような受付の勤務を終えたばかりのシカマルは、屈託のないその表情に少しだけ疲れを忘れた。
 手を抜けるならどこまでも手を抜きたいシカマルだが、周囲はそう甘くなかった。爪を隠した鷹を放っておく気なんかさらさらないとばかりに酷使してくれるからたまらない。最近は受付よりも参謀室に長く詰めている。完全にあちら詰めになる日もそう先の話ではないだろう。
「ついに上忍か」
「おうさ!」
 なんだかんだ言って、とんとん拍子に昇格する奴だなと、シカマルは苦笑する。
 同期の中ではネジがいち早く上忍となり、続いてシノとサイが。シカマルとサスケ、リーが特別上忍となっているが、サクラやいの、キバたちは未だ中忍だ。それほど中忍から上忍へと至る壁は厚いのだ。
 自分たちの世代が粒ぞろいといわれ、上下の世代に比べても昇格が早いのはわかっている。が、恐ろしいほどのスピードで能力を高めていく奴が近くにいると、己がどうしようもなく劣っているように感じられてしまうのは仕方がない。
 ガキだったサスケが、焦って里抜けなんて真似をした気持ちが少しわかるような気がする。
 サスケも、里抜けなんかしていなければ今頃は上忍だっただろう。本人は今となっては気にしていないようで、戻ってきてからは憑き物が落ちたように淡々と自分がなすべきことをこなしている。そしてまた、そんな姿がクールでかっこいいとくの一たちに熱い視線を送られるわけだが、当のサスケは相変わらず辟易しているようだった。
「おめでとさん。久しぶりにみんなで集まって騒ぐか」
「いーね。もちろん奢りだよな」
「ま、たまにはな」
「やりっ!」
「いつにする。今ならリーもシノも里にいるし、今夜にするか?」
「あー、悪い。今夜は俺がパス」
 ナルトは顔を曇らせて、手をひらりと振った。
「そうなのか? じゃあ明日でどうだ」
「明日なら大丈夫!」
「んじゃ明日な。他の連中には俺が伝えておいてやる」
「サンキュー!」
 じゃーな!と、ナルトは大きく手を振ると、その場から掻き消えた。
 相変わらず旋風みたいな奴だなと、シカマルは肩を竦める。その性質のままに風のようなナルトは、すぐにどこかに飛んでいってしまう。
 シカマルは大きく欠伸をすると、夜勤明けの身体を動かした。正直、今夜集まるとなると自分もきついところだったので、ナルトの都合はちょうどよかった。
 それにしても。
「あいつ、どこに飛んでいったんだ?」

 


 幼い頃は大きな屋敷で暮らしていた。
 とてもとても広い部屋。広い敷地。
 だけど、とても冷たい場所。
 突き刺さる冷たい視線が嫌で、怖くて、よく屋敷を抜け出しては裏手にある森で遊んだ。
 鬱蒼とした森は恐ろしかったけれど、それでもあの冷たい視線に比べれば何倍もましだった。
 森はどこまでも続いていて、果てなどないようだった。少しずつ少しずつ、奥へと踏み込んでいった。時折恐ろしい獣に遭遇することもあったけれど、彼らは何故か、自分を見ると逃げ出した。まるで自分の方が恐ろしい獣だといわんばかりに。
 獣にさえ嫌われるのかと、少し悲しくなった。
 そうしてまた、森の奥へと踏み込んだ。
 屋敷からどれほど離れたのだろう。背の高い木々に覆われて暗かった視界が急に開けた。
 眩しさのあまり目を閉じて、そろそろと開けてみれば、そこには透き通った水を湛えた泉があった。
 美しい泉だった。
 そこだけ開けているため太陽の光が降り注ぎ、水面がきらきらと光っていた。
 そして。
 その美しい泉で、一羽の白い鳥が羽を広げて遊んでいた。

 


「カカシ先生、はっけーんっ!」
「おっ」
 上忍待機室でいつものようにエロ本片手に待機していたカカシは、突然飛び込んできた弟子にそのままの勢いで抱きつかれ、長椅子の上で体勢を崩した。
「おまえねえ、いい加減自分の図体考えなさいよ」
「あー。悪いってばよ。先生が小さくなったのつい忘れて」
「おまえがでかくなったって言ってんでしょ」
 ごつんっと拳をくれてやれば、ナルトは大げさに頭を抱えた。本当は痛くなんかないくせにとひっそりとため息をつきつつ、カカシはすっと手を出した。
「で、どうだったの。見せてみな」
「もちろん完全勝利!」
 ナルトは握りすぎてぐしゃぐしゃになった任命書をカカシに差し出した。
 皺だらけのそれに呆れた顔をしながらも、カカシはその文面を流し読むと、嬉しそうに目を細めた。
「ん、よし。よく頑張ったな」
「へへっ」
 ナルトは誇らしげに胸を張り、笑った。
 中忍選抜の時とは違い、上忍昇格には試験はない。まず数名の上忍から推薦され、その能力と実績を多方面から分析し、選抜され、最終的にご意見番と火影により上忍の資格ありと判断されれば登用される。
 木の葉のご意見番は二人。他の里よりは通りやすいといわれるが、そのご意見番たちこそがナルトの最大の障害だった。
 彼らは、九尾を抱えたナルトを快く思っていない。忍びなどもっての外。厳重に結界を張り巡らせた箇所に生涯軟禁すべしと、ナルトが赤ん坊の時から言い続けてきた年寄りどもなのだ。
 ご意見番たちが、ただ単にナルトが憎くてそんなことを言っているわけではないのはわかっている。里のために、小さな綻びも見逃せないのだ。ましてや、火影は代々理想と情を優先する傾向にある。その頭を冷やすためにも、あえて酷薄ともいえる提案をするのも彼らの務めだった。
 ともあれ。
 そのご意見番たちの承諾も得た。任命書には彼ら二人の名前もちゃんと書かれている。すなわち、晴れてナルトは上忍の一人となったのだ。
「おめでとう」
「ありがとう。先生のおかげだってば」
「俺は何もしてないよ」
 嘘だ。
 ナルトは心中で呟いた。
 ナルトが上忍になるには、カカシ以外の上忍からも推薦を受けなければならない。最低でも四人。通常はそれで充分だが、後ろ盾のないナルトの場合それ以上の数が必要だった。
 カカシはガイや紅、そのほか数名の上忍の推薦を集めてきてくれたのだ。
 それがどれだけ大変なことか、ナルトにだってわかる。
 ナルトはこつんと、カカシの胸に額を押し付けた。
「先生、ありがとな」
「これからこき使われるよ。覚悟しときな」
「おう」
 顔を上げたナルトはにっと笑った。
「先生、今夜ヒマ?」
「ん? うん、予定はないよ」
「じゃあさ、呑める場所でご飯食べよ。俺、奢るし」
「おまえが? 逆じゃないの?」
「上忍になったらカカシ先生に奢るって決めてたんだ。んで、イルカ先生には上忍になって初めての報酬で一楽のラーメン!」
「そりゃまた嬉しいねえ。自来也様には?」
「エロ仙人なんか知らねえってば。全然里に寄りつかねえじゃん」
「泣くよー?」
「んじゃ、帰ってきたらなんか考える」
「そうしたげな。きっと喜ぶよ」
 あの人にとって、おまえは孫のようなものだから。
 カカシは声に出すことなく呟くと、金色の頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「じゃあ、今夜な」
「おう! 遅刻すんなよ、先生!」
「はいはい」
 ひらひらと手を振ると、ナルトは飛び込んできた勢いのままにまた飛び出していった。
 そんなナルトの背中を見送ると、カカシは静かに微笑し、再び愛読書を開くのだった。 

 


 きらきら、きらきら。
 白い鳥は銀色に輝く羽を水面に広げて、きらきらと光る水の中に身体を沈めて水と戯れている。
 なだらかな曲線を描く、白い肢体。
 柔らかに膨らんだ胸もまた白く、つんっと尖ったその頂は桜色。
 伏せた目は銀を散らした蒼と、艶やかな柘榴のような紅。
 しなやかに白い腕で水を飛ばし、光の中、水と戯れる。
 美しい鳥だった。
 泣きたいほどに、とても、とても。
 その時、恋に落ちた。
 美しい泉で、水と遊ぶ、その綺麗な鳥に。
 ナルトは恋をしたのだ。

 


「先生、呑みすぎだってば」
「ん〜〜〜‥‥‥」
「もー、俺が悪い奴だったらお持ち帰りして喰っちゃってるとこだぞ」
 ナルトはやれやれと盛大なため息をつき、見た目に反してひどく軽い身体を背中に担いだ。
 カカシは身長は高いが、絶対的に重量と横幅が足らない。パワータイプの忍びと当たると弾き飛ばされてしまうため、そのスピードを生かした動きで翻弄して対処する。
 収まりが悪いのか、しばらく背中でもぞもぞと動いていたカカシは、やがてナルトの首に腕を巻きつけるとようやく落ち着いたらしく、ほっと息を吐いた。
 身体が密着する。
 ナルトは切ない息を吐いた。
「‥‥‥ほんと、いっぺん術も何もかも無効にしてひん剥いてやろうか」
 やろうと思えばできる。
 子供の頃、誰も文字を教えてくれなかった。
 三代目は身の安全と生活を保障してくれたけれど、里を建て直すために火影に復帰した数年は屋敷に戻ることもまれだった。誰も、何も教えてくれなかった。
 文字が読めなかったから、アカデミー時代は勉強が嫌いだった。知らないから教えてくれと頼むことができずにいたナルトにようやくイルカが気づき、根気強くひらがなとカタカナから教えてくれたおかげで、卒業するまでにはどうにか読み書きできるようになったけれど、漢字は相変わらず読むこともできなかった。
 下忍になってそれが知れると、カカシを始め周囲の大人たちが暇を見つけては漢字から忍び文字から教えてくれるようになった。そのおかげで、今ではどんなに古い忍術書でも読むのに何の苦労もない。
 不思議なもので、読めるようになると勉強が苦にならなくなった。師である自来也が里に残したままの貴重な忍術書を紐解く許可をもらってからは、ナルトの読書量はかなりのものだった。
 だから。
 カカシが日常的に使用している術を無効にしようと思えば、ナルトにはできるのだ。最小限のチャクラで長時間姿を変える術も、それを外部から解く術式も、以前読んだ古い忍術書に書かれていたものだから。古すぎて忘れられた、神事のための術。
 もちろん、そのためにはいくつかの条件が必要だ。
 例えば。
 対象の、本来の姿を知っていることなど。
 ――――かつて恋をした、泉で遊ぶ白い鳥。
 柔らかな肢体。柔らかな胸元。美しい貌。色違いの瞳。
 水に濡れた身体はどこまでもしなやかで、きらきらと光る水面には銀色の長い髪が羽のように広がっていた。
 そして、やはり濡れた淡い茂み。
 その奥に秘められた、しっとりと露を含む蕾を想像すれば、ナルトの下肢はたやすく熱を持つ。
 ふるりと揺れる白い胸。その頂はつんと尖った桜色。
 白い咽喉元から胸元の谷間へ、つっと伝った水滴が、たまらなく艶やかだった。
「ませたガキだったよなあ」
 泉で水浴びをする美しい少女に恋をした当時、ナルトは三歳かそのくらいだったはずだ。性欲のなんたるかも知らないチビのくせに、全裸のカカシに欲情するとは。
 はあっと、ナルトはもう一度盛大なため息をついた。
 だが、思うのだ。
 水浴びをするカカシはナルトに気づいた様子はなかったが、本当にそうなのか。
 あの当時、カカシは暗部として前線で活躍していたはずだ。水浴びしていたのも、おそらく返り血を落とすためだったのだろう。
 それとなくヤマトに探りを入れてみたが、カカシが性別を偽っていることは知らないらしい。五代目はさすがに昔馴染みなだけあって知っているようで、ヤマトでさえ気づかなかったナルトの探りにも、意味ありげに艶やかな唇を歪めてみせた。釘を刺されなかったのは、認めてもらえたのだろうか。
 たとえ認めてもらえなくても、あきらめるつもりはさらさらないが。
 長い間、恋をしてきた。
 冷たいばかりの世界で、この恋心はただひとつ輝く宝物のようなものだった。
 その相手がまさか、男として生きている凄腕の上忍だとは思わなかったが。あの少女が自分の上忍師だと気づいた時の歓喜と絶望は、到底忘れられそうにない。
「まあ、じっくりやるさ」
 ずれ落ちそうになる身体を担ぎ直しながら、星の瞬く夜空を見上げた。
 ようやく見つけた白い鳥。
 ずっとずっと恋し続けてきた綺麗な鳥。
 こちらが伺っていることに気づいている鳥が、羽ばたいて逃げていかないように、焦らずに、じっくりと。
 それが。
「狩りの基本だよな」 
 恋する狐はそう嘯いて、にやりと、牡の顔で笑うのだった。