少年ハート ―夏風―

 


 開け放った窓から遠く、野球部の掛け声が聞こえてくる。
 真夏の匂いのする風がはたはたとカーテンを揺らし、沈みかけた太陽は室内を黄昏色に染める。
 人気のない図書室は、歴史の浅い学校のわりに書棚の数は多い。他の学校からのお下がりのものが多いせいか、古い紙の匂いがした。
 夏の日なたと。
 埃と。
 それから。
 誰かの、汗。
 整然と並べられた書棚の奥、背の高い少年が青年に圧し掛かっている。
 上背と青年が敵うべくもない横幅で抵抗を封じ、ひたすらその唇を貪っている。
 しんと静まり返った図書室に、かすかな水音が時折響く。それから、あえかな吐息。
 真夏の太陽の光をより合わせたような金色の髪を短くした少年は、青年の白い指に絡めるようにして両の掌を重ね合わせている。逃がさないと、指に込めた力で示す。
 はっ‥‥‥と。
 青年の唇から吐息が零れた。
 けれど、すぐさま少年に塞がれる。
 喰らい尽くすかのように、唇を貪られる。
 青年の身体から力が抜けると、冷たい壁に凭れかけさせたまま、白い咽喉に舌を這わせる。そのまま少しずつ下へと移動し、やがて、襟元に差し掛かり。
 少年は、ダークグリーンのネクタイに白い歯を立てた。
 結び目に歯を立て、ネクタイを緩めていく。焦れったいほどの緩慢な動きを、青年は色違いの目でぼんやりと見つめていた。
 ――――翻る。
 健康的な赤い舌。真っ白い歯。
 それか垣間見えるたび、下肢に熱が篭っていくのを自覚する。
 ‥‥‥何をしているのだろう。
 何をしているのだろう、自分は。
 生徒と。
 教師である自分が。
 夏休み中とはいえ。
 校内である図書室で。
 こんな。
 こんな――――
 やがてネクタイは完全に解かれ、今度はワイシャツのボタンを攻略しにかかる。
 その時だった。
「せんせー? いますかー?」
 聞き覚えのある女子生徒の声に、ぎくりと背中が震えた。
 霞がかった意識で、鍵を締めていなかったことを思い出した。彼女が読書好きで、よく本を借りに来る生徒であることも。
「せんせー? いないのー?」
 おかしいなあ、開いてるのに。
 彼女は勝手に入っていいか迷ってる風だった。
「せんせー」
 少女の声と、遠く野球部の掛け声。
 はたはたと音を立てるカーテン。
 少しずつ濃さを増していく、黄昏の色。
 青年は、きつく目を閉じる。
 ぷつりと、ボタンが引き千切られる音がした。

 


「‥‥‥立てる?」
「ああ」
 少年のたくましい腕が、支えるようにして腰に廻される。例年にないほどの猛暑に、ますます薄さを増した身体が情けなかった。
 少年に抱きしめられるようにして立ち上がり、よろめく足にどうにか力を込める。
 そして。
 そのまましばらく、互いの肩に顔を埋めるようにし。
「帰ろ」
「‥‥‥ああ」
 黄昏色の光はすでになく、窓の外は夜闇に包まれている。開け放ったままの窓からは昼間の熱の名残を孕んだ風が吹き込み、はたはたとカーテンを揺らしている。
 青年は。
 色違いの目を重たそうに瞬かせて、間近にある少年の健康的な首に目を留める。
 そして。
 ‥‥‥がりっ
「‥‥‥っ。なに?」
「なんでもない」
 青年はくすりと小さく笑った。
 少年は大人びた表情の中、年相応に唇を尖らせる。けれど、満更でもない風だった。
 なぜならば。
 甘い声も。快感を堪える爪痕も。
 何も、何も残さない、与えない青年が。
 ただひとつ。
 少年にくれたものだったから。
 夜闇の中、それは誰の目にも留まらない。
 夏休みの最中、学校が始まるまでには消える、それ。
 かすかに血の滲むそれに指を這わせ、少年は笑う。
 それはそれは嬉しそうに。 
 はたはたと、カーテンが揺れる。露を含んだ風が吹き込む。
 室内に残る、かすかな血の匂いと。
 それから。
 青い生の匂いをかき消すように。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 少年ハート ―犬を拾いました―

 


 散歩の最中、犬を拾った。
 人間は様々な地形を自分たちの都合で作り変えてきたけれど、大きな川の流れにはさすがに手をつけられなかった。作り変える際にかかる金額を省みただけで、人間の労働力が安かった時代だったならばとっくに弄られつくしていただろう。
 そんな第一級河川の、コンクリートに覆われた川べりで。
 はたけカカシは犬を拾った。
「なにしてるの?」
「あ?」
 犬はぎろりと睨みつけてきた。
 寝心地なんか絶対に良くないだろうコンクリートの上で大の字になった犬。まだ高い日の光を受けてきらきらと光る毛並みは金色。
 犬の喧嘩は路地とか公園とか、暗いところでやるもんだとばかりと思ってたなあと、カカシはのんきな感想を持った。
 かつては草が茂っていた河川敷だっただろう護岸には、明るい日の光が降り注いでいる。水質の改善されてきている川面には時折銀色の魚影が光を弾き、白い水鳥が気持ちよさそうに浮いている。
 遠くからは子供の声が聞こえ、穏やかで健康的な昼下がりだった。
「負けたの?」
「負けてたらこんなところで悠長にしてられるかよ」
 ふうんと鼻を鳴らす。
「じゃあ勝ったんだ」
「ったりまえだろっ。なんなんだよ、おまえ!」
「拾ってあげようか」
「はあ?」
「だから、拾ってあげるよ。感謝しなさいね、わんこ」
「誰がワンコだ! 大体なんで感謝なんか!」
「気づいてないようだけど、ここっておまわりさんのパトロール区域なのね。ほら、橋の下で寝泊りする人多いでしょ。積極的に追い払いはしないけど、人数を数えたり、お年を召した方が亡くなってないか確認するためにね、毎日来るの。で、そろそろその時間」
「‥‥‥げ」
 金色の犬は嫌そうに顔を顰めた。その拍子に殴られた傷が引き攣れたらしく、今度は痛そうに眉を顰める。
 あ、ちょっと美形な犬かも。
 カカシは犬を見下ろしたまま、ちょっと笑った。
 犬はとても勝ったとは思えないぼろぼろの様子だったけれど、荒削りな貌は充分整っていた。
「どうする。俺に拾われる? それともおまわりさんに保健所につれてかれる? 選ばせてあげるよ」
「こっから逃げれば済む話じゃねーか」
「動けるんだ?」
 笑顔でそう指摘してやれば、犬は黙りこくった。
 おそらく、喧嘩をした場所はここではないのだ。勝ったというのも本当だろう。昨今の手加減を知らないガキどもが動ける程度に収めるはずがない。勝ったからこそ、今こいつはここにいる。
 だが、それもここまでだったのは確認するまでもない。それほどの傷み具合だった。
 犬は悔しそうに唸りながらも迷っているようだった。
 見るからに日本人ではない色彩を纏った怪しい風体の男に拾われるか。警官に補導されるか。
 前者を選ぶほどまだ自分を安くしていないとわかって、カカシは少しだけ安心した。
「ほら、早く。俺のマンションはここのすぐ近くだからさ。うずまきナルトくん」
 名前を呼ばれた犬は、その蒼い瞳に稲妻のように警戒の光を迸らせた。何で知ってるんだと目だけで問うてくるのに、カカシはくすりと笑う。
「有名だよ。転任してきたばかりの教師が、うちの学校の要注意人物ですって写真付きのリストを見せられるくらいには」
「‥‥‥なんだよ、それ。あんた教師かよ」
 犬はどっと疲れたように力を抜いた。
 結局のところ補導されるのと変わらないのだと思ったようだ。
 けれど。
「転任前だって言ったろ? 今の俺は教員免許を持ったただのプーだよ。でかい犬を見かけたらつい手を伸ばしてしまうだけのね」
「犬じゃねえ」
「犬じゃないならここに放っていくよ。犬だから拾うんだよ」
 犬はぐるぐると唸り始めた。
 少年らしい高いプライドが犬扱いをよしとしていないらしい。
 だが、迷っていられる時間は短い。
 やがて、心底嫌そうに、不承不承、口を開いた。
「‥‥‥わん」
「よし」
 カカシは犬を拾った。

 


 マンションに連れ帰った犬を洗ってやって、傷の手当てをして、餌をあげたら、新年度が始まるまでの一週間、犬はそのまま居ついてしまった。
 でかい図体は邪魔だったけれど、きらきら光る金色の毛並みを思う存分に撫でることができて、カカシはご満悦だった。犬は意外に静かで無駄吠えもしなかったので、まあいいかと放っていたのが運のツキ。
 明日には自分の小屋に帰りなさいねと告げたその夜。
 犬はあろうことか、カカシにマウントしてきた。
 着ていた服を剥ぎ取り、裸の身体を思う存分舐めて、弄り。
 子犬のものとは思えない成長したそれを、カカシの本来受け入れる箇所ではないところに突き入れた。
 カーテン越し、外が明るくなるまで揺さぶられ、擦られ、喘がされ。
 中を存分に濡らされて。
 もう指一本動かせないというほど疲れきったカカシの耳元で、犬は甘く囁いたのだ。
 ‥‥‥一度拾ったら最後まで面倒見なさいって、先生の台詞だよな。
 

 

 それからというもの、犬は三日とあけずに通うようになった。
 意外に読書好きだったらしい犬は、山と詰まれた蔵書の中から旅関連の本を見つけては読みふけり、カカシのために食事を作り、夜にはカカシにのしかかる。
 あっというまに大きな子犬から成犬に成長した犬の体力は半端ではなく、カカシはいつも最後には意識を飛ばす。そうして我に返れば、身体は綺麗に清められ、ぐちゃぐちゃに濡れたベッド周りも整えられている。
 犬はさっぱりした顔でカカシにじゃれて、まるでマーキングするかのように匂いをつける。
 あーあと思った。
 ‥‥‥あーあ。
「重いよ、わんこ」
「わん」
 犬は楽しそうに笑いながら、カカシの咽喉に噛み付いた。
 この噛み癖も何とかしなければと思った。